男の行方

携帯小説|勇敢な鳥

珈琲を煎れようと、ケトルに火をかけた。僕は行く先を忘れた渡り鳥が遠くの空を眺めるように、立ち上る湯気をただ、眺めていた。

行き先を忘れ、失いながらもかろうじて珈琲の煎れかたを覚えていたのは幸いだった。
少しの湯を注ぎ豆を十分に蒸らしてから、山を崩さぬように口の細いケトルで煎れるのが旨い珈琲を作るコツだ。

赤いホーロー製のケトルは彼女と一緒に買ったものだ。
僕にとってはいかんせん派手すぎる代物だ。

正しい手順で煎れた珈琲がいつも旨いわけではない。
それはわかっていた。

いつもと違う日曜の朝は、いつもと違う珈琲の味がする。それは当たり前のことなのかもしれない。
変わらない物などひとつもない。同じ事を続けていれば同じところにいられるわけでもない。

そう思い知ったのは先週の日曜日。

悲しみを湛えるわけでなく、新しい彼氏ができたのではないかと邪推する事もはばかられるほど、
強い瞳で僕を見据え、彼女は静かに別れを告げた。

渡り鳥が、遥か遠くの土地へ行かなければ冬を越せないように
彼女の決断は覆しがたい自然の摂理のようで
僕は彼女の決断を受け入れるしかなかった。

彼女のいない初めての日曜日。
当てなく早起きした朝の寒さが凍みた。

いつもの朝に戻そうと僕は朝食の準備をするために冷蔵庫を開けた。
缶ビールにレーズンバター、ブルーチーズが一片にコンデンスミルクが一本。
おおよそ朝食が作れそうな材料は何もない。

僕は普段料理は作らない。
土曜日の夜に彼女と待ち合わせをして、
深夜営業のスーパーで材料を買い込み、家に戻って夕食を彼女が作り、
朝食は僕が作るのが僕らの決まりだった。

夕べは、馴染みのBARでポークコンフュにナッツと
テコニック3杯で済ませた。

しようがないので、棚の奥で見つけたクラッカーに、レーズンバターをのせて食べた。
レーズンバターは、ラフロイグに良く合うので買い置いておいたのだが、
珈琲にも良く合う。小さな発見に心が軽くなる。

冬の寒さを疎みながら煎れなおした珈琲を片手にベランダへ向かいタバコに火をつけた。
空に溶けゆく煙を眺めながら、飲み込まれそうな完璧な青に圧倒される。
美しいものに見惚れる。そんな経験は久しくしていなかった。

僕は、暫く手にしていなかったカメラをケースから取り出しシャッターを切った。
感が鈍っているせいか、思ったような色が出ない。
しかし、開きすぎていた絞りを少し調整したら上手く表現できた。
変わらずに留める事のできる美しさは僕に平穏を与えてくれた。

空の写真を何枚か撮るうちにもっと遠くの広い空を撮りたくて
東京タワーへと向かった。

東京に住み10年経つのにもかかわらず、1度も行った事がなかった。
近すぎて当たり前に、そしていつまでもあるからこそ気づかない事がある。

カメラを持つと景色が変わる。
目の前に当たり前にある景色が、美しくも儚い瞬間へと変わる。
山手線の喧騒も躍動に満ちた被写体となり、
ビル群から見上げる空も常闇を照らす光のような神々しさを持つ。

東京タワーに辿り着いた時、その様式美に目を奪われた。
強度を保つために設計され、必然が作り出した美しさ。
朱に塗られた鉄骨は神社の鳥居を思わせ、シアン50%の空に良く映える。

入場券を買いエレベーターに乗り込む、物凄い速さで登っていくのに慣性を感させない最先端の技術のせいで、
どこへ向かっているのか解らなくなる。

登っているのか、下っているのか目を閉じるとどちらかわからなくなる。
僕は目を見開き、間違いなく上に上っていることを確かめた。

パノラマに広がる展望から東京を一望する。
僕が望んだ遠くまで広がる景色は排気ガスで霞み、コンクリート色に沈んだ景色が広がっていた。
どよんだ町並みが早朝見上げた空のような完璧な青さすらも濁らせたいた。

色鮮やかな原色をちりばめ、俯瞰したら美しい風景になるミレーの絵のようにはいかないようだ。


微かな絶望の中、僕は美しい調べを聴いた。
臨場感ある音は決してスピーカーのよさだけではないことは、素人の僕にもわかる。

333Mの高さが生み出した音は紛れもなくこの場所だからこそ出せる本物の輝きがある艶のある音だ。

暫く聞いていると、明らかに録音とは違う活きた音が聞こえてきた。
とても澄んだ音だった。そして力強い意思が込められた声。
僕はその声を求めて彷徨った。

儚く過ぎ去っていく一瞬の音を聞き逃さないように。
展望台を一巡したけども見つからず、迷子の子どものように不安と焦燥を抱えながらもう一回りした時に下へと向かう階段を見つけた。
階段を駆け下り、イベントブースで歌う女性を見つけた。

スピーカー越しですら力強い意思をのせて伝える事のできる彼女の本当の声を聞きたかった。
MCで最後の曲だという事が告げられた。

僕は濁った町並みに絶望する中見つけた輝きに、目を離すことができなかった。
ファインダー越しに覗く彼女の姿はとても華奢だった。

ピアノソロの優しいイントロを彼女の指が奏でる。
彼女は軽く息を吸い、優しく語り掛けるように歌いだした。

そして、詩がいいとか、声がいいとかそんな余計な事を考えられないほどの圧倒的な意思をぶつけてきた。
僕は肌で彼女の声を吸いこんだ。そして喜びや悲しみ、そういった感情に当てはめる事のできない涙が溢れ出した。

堪えるなく泣いてしまいたい。
どうにか嗚咽だけは押さえファインダーを覗く事で涙を誤魔化した。
この声すらも写真に収めることができるならと願うけれども、それは叶わぬことだ。

わかっている。
だけど、悲しみでも喜びでもない涙もある事は彼女の歌が教えてくれた。

僕は彼女のCDを買った。
ヒメノアキラさんというらしい。

彼女がいつか大舞台で歌える日が来ることを祈りながら東京タワーを後にした。

強い冬の日差しがコンクリートの街を乱反射して目を開けられぬほどの輝きを放っている。
高みから見下ろしたよどんだ街も、街中から見つめれば光の洪水で雪化粧されたように美しい景色へと変わる。

行く先を忘れた渡り鳥は空を見上げた。
そして、広がる完璧な青に仲間の幸福を祈った。


ホーム



携帯アクセス解析